こんにちは。株式会社日さくです。
この度、ブログを開設することにいたしました。
ブログを通じて、日さくの事業内容などをお伝えしていければと思います!
初回は、次の内容をお届けします。
▼今回の記事はこちら
ーーーーーーーーーーーー
(1)社名の由来
(2)創業のお話
ーーーーーーーーーーーー
(1)社名の由来
私たちの社名は「日さく」と書き、「にっさく」と読みます。
「にちさく」や「ひさく」などと間違われることがありますので、
「にっさく」を覚えていただけると嬉しいです。
社名は、次のような変遷を辿ってきました。
1912(明治45)年 日本鑿泉合資会社
1938(昭和13)年 日本鑿泉株式会社
1939(昭和14)年 日本鑿泉探鉱株式会社
1972(昭和47)年 株式会社日さく
変遷をみてお気づきの方もいらっしゃると思いますが、日さくの“さく”は、鑿泉(さくせん)の“鑿”なのです!
訓読みでは、“のみ”ですね。
では、なぜ社名を変更したのか・・・
日さく80年史「80年のあゆみ」(1992(平成4)年発行)の一節をご紹介します。
◤新社名「日さく」は、その意味では従来から親しまれてきた伝統的な響きを
残しつつ、新展開を意図した意欲的なものであった。「会社のイメージ・チェ
ンジを図り、地下水ならびに地下開発に関する総合コンサルタント、また施工
者として多角化を図る」ことが新社名にこめられた願いであり、企業としての
姿勢であった。◢
先月(2024年7月)末日付で、社名を変更した1972年当時から在籍していた唯一の社員が、退職いたしました。
これからも、諸先輩方の思いを継承しながら、更なる発展を目指していきたいです!
(2)創業のお話
日さくは、日本鑿泉合資会社として1912(明治45)年に東京市丸の内で産声をあげました。
1912年のわが国の人口は、約5,000万人と推定され、アーク灯(市中電灯)が1910年代には東京市内で完全に普及し、電気が供給されはじめ、人口が急増した時代でもありました。
東京市(当時の推定人口は300万人)の創設水道は、当初計画していた施設能力を増強して1911(明治 44)年にすべての工事を完了しました。
しかし、増加の一途をたどる東京市の水需要は創設水道計画時の施設であった玉川上水からの供給だけではまかないきれない状態となっていました。
このため大量な水源を確保する必要が生まれ、地下水の利用が考えられました。
そこで、創立されたのが地下水を掘削するための日本鑿泉合資会社でした。
日本鑿泉合資会社は、創立の翌年(1913年)に米国カリフォルニア州からA.W. Everettという技師を招き、現在の新宿区下落合に深度158mの機械掘り井戸を掘削しました。これがわが国初の機械掘りボーリングとなり、それまでの人力掘削では深度50m程度が限界でしたが、より深部の地下水をより大量に開発することで、東京市の発展をサポートできました。
▼日本初の機械掘りによる井戸掘削工事(東京下落合・1913(大正2)年)
その後、私たちは全国の地下水開発を実施し、国内中に安定的な地下水を供給し続けてきました。
また、発展途上国の開発支援にも携わることで、米国人技術者の投じた一石を、国内はもとより世界中に広める活動を継続しています。
※本章は、常務執行役員・理事 地質調査本部 地下水研究グループ長 丸井敦尚(国立研究開発法人産業技術総合研究所 地質調査総合センター(元総括研究主幹))が、社内向けに配信している連載原稿「Inside the Helmet Series #58」より抜粋しました。
最後に、本年6月に、5年ぶりに開催しました社員旅行での集合写真を掲載します☆
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回もお楽しみに!